今回は、前回(その1)を踏まえ、北朝鮮問題において真にクローズアップすべきである、我が国の同盟国、世界のジャイアン警察官ことアメリカの姿について考えていきたい。
第二次大戦後のアメリカの戦歴
アメリカの別の側面を理解するため、まずは第二次大戦後のアメリカの軍事史を振り返ってみたい。
次の表は、戦後にアメリカが介入・参戦した戦争や事件などである。自作の表なのでもしかすると誤りや抜けている部分があるかもしれない。
しかし、少なくとも、これらは高校の世界史の教科書や参考書などに登場するようなれっきとした史実である。
西暦 | 事件・戦争 | 場所 | 内容 |
---|---|---|---|
1950~53 | 朝鮮戦争 | 朝鮮半島 | 韓国を軍事支援・参戦。約48万人の兵力投入。 |
1953 | イラン・クーデター | イラン | 石油国有化を断行したモサデグ(首相)政権をCIAの工作により転覆、パフレヴィ―2世(皇帝)の政権樹立。 |
1954 | PBSUCCESS作戦 | グアテマラ | グアテマラ革命(農地改革、識字運動、マヤ人の権利回復運動など)を主導した民主政権をCIAの工作活動などにより転覆。軍事独裁政権を樹立。 |
1965~73 | ベトナム戦争 | ベトナム | ベトナム共和国を軍事支援・参戦。約55万人の兵力投入。 |
1970 | カンボジア侵攻 | カンボジア | カンボジア東部の南ベトナム解放民族戦線支援ルートを遮断する作戦を決行。約5万人の兵力投入、参戦。 |
1971 | ラオス空爆 | ラオス | 北ベトナムと友好関係にあったラオス愛国戦線を空爆、参戦。 |
1973 | チリ・クーデター | チリ | 社会主義的政策を掲げた民主政権を打倒すべく、チリの軍幹部などに介入・支援し、政権転覆。ピノチェト独裁政権を樹立。 |
1979~89 | サイクロン作戦 | アフガニスタン | ソ連のアフガニスタン侵攻に対抗し、既に存在していたイスラム武装勢力(ムジャヒディン)に対し数十億ドルの資金援助と軍事援助を実施。 |
1980~92 | エルサルバドル内戦 | エルサルバドル | 軍主導の不正選挙などに反発し蜂起した左派ゲリラに対抗し、エルサルバドル内の極右勢力に対し経済・軍事援助を実施。テロ組織(死の部隊)の結成に関与。 |
1980~88 | イラン=イラク戦争 | イラン・イラク | イラクがイランを攻撃したことにより勃発。アメリカはソ連とともに侵略国であるイラクを支援。一方、アメリカが軍事援助・経済支援を行っていたイスラエルはイランを軍事援助。アメリカは間接・直接的に両国を支援をすることになり、戦争が長期化。 |
1981~90 | コントラ戦争 | ニカラグア | ニカラグアにおける親米政権樹立を目的として、傭兵軍隊「コントラ」の結成などを支援。イランへの武器売却資金をコントラ支援に流用し問題となる(イラン・コントラ事件)。 |
1983 | グレナダ侵攻 | グレナダ | 当時内乱状態にあったグレナダに対し、親ソ連・キューバ政権の樹立を恐れ、約7000人の兵力を投入し侵攻、参戦。 |
1989 | パナマ侵攻 | パナマ | 「麻薬撲滅」などを掲げ、当時麻薬の密売を資金源としていたとされるパナマのノリエガ政権を打倒するため、約5万人の兵力を投入し侵攻、参戦。 |
1991 | 湾岸戦争 | イラク | イラクのクウェート侵攻に対し、制裁として武力行使、参戦。 |
1998 | スーダン報復攻撃 | スーダン | アメリカ大使館爆破事件の報復として、スーダン国内のアルカイダ兵器工場とされる施設を爆撃するも、爆撃したのは薬品とミルクの工場であったことが判明。 |
1998 | イラク空爆 | イラク | イラクが国連の大量破壊兵器の査察に対し、「査察を根拠としたスパイ活動だ」としてアメリカ人査察官を追放したことなどを理由に、首都バグダッドを空爆。 |
2001 | 不朽の自由作戦 | アフガニスタン | 9.11世界同時多発テロ首謀者とされるウサマ・ビンラディンの身柄引き渡しに応じない当時のアフガニスタンの主力武装勢力タリバンに対し武力行使、参戦。 |
2003 | イラク戦争 | イラク | イラクが大量破壊兵器を保有している疑いがあることを根拠として侵攻、参戦。 |
いやぁ、とっても、お盛んな国ですね♥
もちろん、お盛んなのはアメリカだけではない。
ロシアや中国、欧州主要国(とくにイギリス)も似たり寄ったりである。
ただ、世界1位の軍事力と経済力を有しているだけあって、軍事介入の頻度は極めて高い。
もう、バッキバキである。
おそらく表沙汰になっていない事件などもあるだろうし、実はアメリカが関与していたという事件や紛争も中にはあるだろう。
また、この表にあるように、意外と民主主義国家もぶっ潰していたりする。あるいはスーダンのように何故攻撃したのかよくわからない国もある。中にはイラン=イラク戦争のように、もはや何がしたかったのかよくわからないケースも存在する。
いずれにせよ、アメリカも含めた世界のジャイアンたちは、自分たちの都合で軍事的な行動を起こすということである。
では、北朝鮮のようなアメリカと敵対する立場の国々の視点から、これらの軍事的行動はどのように映るのだろうか。
もちろん、脅威である。というより、もはや恐怖である。
我々からしてみれば北朝鮮が脅威なのだが、北朝鮮からすればアメリカという国が怖くて怖くてたまらないのである。何せ、相手がどうしようが関係がなしに、ジャイアンたちは自分たちの都合で軍事行動を起こすのだ。
やられる側はたまったもんじゃない。
「だったら目立たないようにおとなしくしていればいいだろ。ミサイルぶっ放すなんて逆効果じゃないか。」
と思った方もいるかもしれない。
それもそうである。しかも、アメリカも曲りなりにも民主国家だ。何も悪事を働いていないのであれば、少なくとも喧嘩を売らなければ、アメリカ国民が北朝鮮への武力行使に同意することはないはずだ。
そうなれば、旧ソ連のように、ご都合主義丸出しで軍事的行動を起こすことなど、アメリカ政府に関してはありえないということになる。
ところが、そう単純ではないのが、アメリカという国の厄介なところなのだ。
対民主政治の武器①「印象」
通常の民主国家であれば、「国民の同意が得られない政策は実行できない」と考えるのが普通だ。概ね日本もそう(異論は認める)であるし、欧州諸国も大体そういった共通理解がある。
ところが、アメリカ政府はそういった常識にとらわれた発想はしない。すなわち、
「国民の同意が得られなければ、同意するように仕向ければいい」
と考えるのである。
さすがは映画スターウォーズを生んだ国だ。イマジネーションが自由過ぎて、超えてはいけない一線をスキップしながら突っ切ってしまう。
そして、国民の同意を取り付けるため、アメリカ政府はアメリカ国民に対し、ある武器を備えている。それが「印象操作」である。
1990年8月、突如としてイラクは350両もの戦車と10万人もの兵力でクウェートに侵攻した。完全な奇襲であった。小国のクウェートはなす術なく、その後イラクに併合されることになる。
これに対し、アメリカ政府はイラク攻撃のため、サウジアラビアに軍を派遣、駐留させることを決定し、決戦に備える。
ところがその時、アメリカ国民の間では、前年の冷戦終結や、レーガン政権時代の数々の戦争などの影響で、厭戦ムードが漂っていた。
さらにそこには、イラクがクウェートに侵攻した理由も影響している。
当時イラクは、イラン=イラク戦争において、莫大な戦費をアメリカからのドル建ての負債(ドルで返済する借金)で賄っていた。そのため、戦後その債務の返済に追われていたのだ。
債務の返済には外貨(ドル)が必要であるが、イラクは自国の原油の輸出にその外貨獲得を依存していた。
しかし、当時中東の産油国の多くは、OPEC(石油輸出機構)の原油産出量の割り当てをガン無視していたため、どこの国も好き放題に輸出していた。そのせいで、原油価格が暴落状態にあったのだ。
そうなると、どれほどイラクが原油を輸出しても、外貨獲得が困難になってしまう。そこで、ヒゲ親父率いるイラクは、周辺の産油国に対し、原油の減産圧力をかけていたのである。多くの産油国は、それに恐れをなして原油の減産にある程度応じたのだが、従わない国もあった。
それがクウェートである。
しかもこのクウェートとの間には、もう一つの軋轢を抱えていた。
イラク南部とクウェートの国境付近にある「ルメイラ油田」の帰属問題である。当時イラクはこのルメイラ油田がイラクのものであると主張、既に掘削を続けていたクウェート政府と争っていたのだが、クウェートはそんなのお構いなしに、さっさと産出していたのである。
はらわた煮えくりかえるヒゲ親父。
さらにそこへ追い打ちをかけるように、アメリカからの圧力もかかる。
債務の返済が滞っているとして、アメリカ産の農作物が輸出規制されたのである。当時食料調達をアメリカからの輸入に依存していたイラク経済は、このアメリカの経済制裁により大打撃を受けることになる。
追い込まれた上に堪忍袋の緒が切れたヒゲ親父。こうした事情で、クウェート侵攻を決断したのである。
この背景を知るアメリカのマスメディアや野党議員も、イラクを「侵略国」として非難はするものの、産油国同士のよくあるゴタゴタ程度の認識しかなかったに違いない。むしろ、アメリカの経済制裁がそうさせたという見方もできるわけだ。
当然、アメリカ国民も、イラクをけしからん国だとは思いつつも、アメリカとは関係のない遠い国の出来事として捉えていた。おまけに、当時のアメリカ連邦議会は、大統領(大ブッシュ)率いる共和党が劣勢という、大統領府とのねじれ状態にあった。
大統領と言えども議会の同意なしに武力の行使はできない仕組みがある。
このままでは、サウジアラビアから軍を動かせなくなる・・・。
ところが、その状況を一変させる出来事があった。
クウェートから命からがら奇跡的にアメリカへ亡命した、「ナイラ」という少女が、NGOのとある集会で、イラクのクウェート侵攻の実態を次のように、流暢な英語で暴露したのだ。
私は12人の女性と共に、アッ=ラダン病院でボランティアをしていました。私が最年少のボランティアで、他の女性達は20-30歳でした。イラク軍兵士が銃を持って、病院内に押し入るのを目にしました。保育器から新生児を取り出し保育器を奪うと、冷たい床に新生児を放り出し死なせてしまいました。(泣きながら)怖かったです。
引用:「ナイラ証言」,『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』,2017年7月27日アクセス
この証言は、涙を流す美しい少女の映像とともに、アメリカのみならず世界中に発信された。そしてこれが、愛と勇気の為なら殺戮も厭わないアメリカ国民のハートをがっちりキャッチしたのだ。
この証言は、アメリカ世論を動かし、そしてその世論の突き上げを食らう形で、参戦に難色を示していた議会をも動かすことになる。
重要なのは、ここで初めて、アメリカ政府にイラク攻撃の大義名分が生まれたということである。それは、
「非人道的侵略行為に対する制裁」
みたいなお題目だ。
このお題目は、参戦論を主張するアメリカ議会議員の強力な論拠となったのである。

参戦の必要性を訴える大ブッシュ(当時)
画像:『池上彰緊急スペシャル!なぜ世界から戦争がなくならないのか?』,フジテレビ,2016年2月12日放送,Writerzlab経由
結果的に議会も参戦に賛同、さらには世界中から「有志」の国々が手を挙げるまでに発展する。もう、大ブッシュを倍プッシュだ。そして軍資金はきっちり東洋のATMから引き出し、決戦の準備を完璧に整えたのである。
これが湾岸戦争勃発の経緯だ。
ところが、湾岸戦争勃発を倍プッシュした、このナイラという少女の証言、全くの嘘だったのだ。
実はこの少女、当時の駐米クウェート大使の娘であった。おまけに、この少女はクウェートに住んでいた事実のない、アメリカ育ちのお嬢様。どうりで英語が流暢だったわけだ。
もちろん、クウェートでボランティア活動なんかしてないし、当然、赤ちゃん殺害の現場なんか目撃してない。これは、クウェート政府による明確なプロパガンダだったのである。
無論、そんなことはアメリカ政府も承知していたはずだ。
なんせ駐米大使の娘である。むしろこのプロパガンダを根拠にお題目を唱えることが目的なのだから、アメリカ政府も加担した側とみるのが常識的だ。
少なくとも、アメリカの参戦の理由は、非人道的侵略行為に対する制裁とかいう、そんなふわっとしたものではないのは確実だ。なぜなら、このナイラ証言がクローズアップされるとっくの前から、サウジアラビアへの軍の進駐を決定しているからだ。
そして事が運べば全てはあとの祭り、事実がバレようとどうなろうと関係ない。
目的の「参戦」は達成したのだ。
先のイラン=イラク戦争で事実上双方の国を支援していたことや、イラクに対して経済制裁を科すという謎の強硬姿勢をとったことなどを考えれば、初めからイランもイラクもどっちもぶっ潰す目的があったと考えるのが妥当だろう(結局イランは潰せてないが)。
いずれにしても、湾岸戦争はあくまで一つの事例だが、こういった印象操作によってアメリカ政府はあっさりと民主主義という壁を越え(ATMのおまけつきで)参戦を可能にしてしまうのだ。
しかし、アメリカ政府が参戦のために使う手段はこれだけではない。
対民主政治の武器②「情報」
1960年12月、社会主義を掲げる北ベトナム(ベトナム民主共和国)は、アメリカからの支援を受け成立した南ベトナム(ベトナム共和国)のゴ・ディン・ジエム独裁政権を打倒すべく、南ベトナム国内の反政府勢力を結集して南ベトナム解放民族戦線(通称:ベトコン)を結成、ここにベトナム戦争が勃発した。
東南アジアの社会主義化を恐れたアメリカは、ベトコンに対抗するため、様々な軍事援助を南ベトナムのジエム政権に対して実施する。
この時点では、北ベトナムはベトコンを通じてテロやゲリラ戦でジエム政権を追い込む戦術であった。すなわち、戦場は基本的に南ベトナム国内であり、本格的に「国家対国家」という様相は呈していなかったのである。
対する南ベトナム陣営も、国内のベトコンの攻撃に対し応戦するといった形での戦闘だったため、アメリカ正規軍による本格的な軍事作戦は行われなかった。あくまで南ベトナムに派遣されていた部隊は、正規軍ではない軍事顧問といった形をとっており、基本的には南ベトナム軍の支援に徹する建前をとっていた。

当時のベトナムの地図
ところがこの時すでに、アメリカの誤算が生じていた。
この南ベトナムを率いるゴ・ディン・ジエムという人物、とんでもない無能だったのだ。
まず、軍や政府の中枢に自らの一族を座らせ、金権政治の温床を築き上げる。続いて、彼自身が熱心なカトリック教徒であったことなどから、カトリック教徒を優遇、その一方で、当時人口の概ね8割を占めていたとされる仏教徒を徹底的に弾圧した。
自ら敵を増やしまくったのである。
これらの施策により、政権基盤は極めて脆弱なものとなった。
結果、その後の軍事クーデターによりこの人物は殺害されるのだが、腐敗した政府の構造は変わることなく、その後も南ベトナム政府は弱体化を続け、自滅してゆく。
つまり、アメリカはこの無能な独裁者をトップに据えたせいで、北ベトナムに対抗する軸を失ってしまうのである。
そうなればいよいよアメリカ正規軍の出番となるのだが、いかんせん、この時点ではまだ本格的な「国家対国家」の段階にはない為、これといって北ベトナム攻撃の口実がない。おまけにアメリカ軍が参戦する理由もない。
このままでは南ベトナムが北ベトナムに飲み込まれてしまう(早口言葉みたいだ)・・・。
そのような状況下で、1963年8月、事態を一変させる大事件が発生する。
31日から米国の駆逐艦マドックス号がトンキン湾で偵察パトロールを開始した。8月2日、北ベトナムの哨戒艇からの攻撃を受け、トンキン湾外へ撤退した。4日、トンキン湾上で、マドックス号とターナージョイ号が、再び北ベトナム軍により攻撃を受けたとの報告が米国政府に伝えられた。
引用:2009,『現代アジア事典』,図書出版 文眞堂,p857より
なんと、北ベトナムの側から、直接アメリカ軍に対して攻撃を仕掛けてきたというのである。これは、北ベトナムがアメリカ参戦の口実を作ってくれたに等しい。
あとは、「このままだとやられてしまうのでやり返す力を僕たちに下さい」と主張すればそれだけでいい。
結果、アメリカ連邦議会から、ほぼ満場一致の同意を取り付け、大統領府は特別法による北ベトナムに対しての戦時特権(自由に軍を動かせる権限)を手に入れる。アメリカはその後、「北爆」と呼ばれる北ベトナムへの大規模な攻撃を展開し、本格的なベトナム戦争へと発展するのである。
この本格的なベトナム戦争へのきっかけをつくった北ベトナムによる攻撃は後に、「トンキン湾事件」と呼ばれる。
ところが、ベトナム戦争終結後、このトンキン湾事件について、衝撃の事実が発覚する。
このトンキン湾事件は、実は、34Aと呼ばれる、アメリカ側が計画した秘密の軍事行動に従って南ベトナムの哨戒艇が北ベトナムの基地を攻撃したことが切っ掛けで起きたもので、北ベトナム側はアメリカの駆逐艦をこの挑発行動の一環と受け止めて攻撃したのである。しかも、4日の2回目の攻撃は実際にはなかったことも、のちに判明している。
引用:海部一男(2004)「イラク戦争におけるブッシュ政権の情報操作とメディアの責任」,『NHK放送文化研究所年報』,NHK放送文化研究所,p80
知ってたけど実はなんと嘘だったのだ。
しかも、議会からベトナム戦争における戦時特権が承認される前に、事実上アメリカ側から手を出している。
でもまぁ、そんなことは関係ない。戦争はもう終わってる。目的はあくまで「参戦」だ。
どんなに騒いだってあとの祭りである。
いずれにせよ、このような形で、肝心の情報は出さずに(アメリカ側から先に手を出したということは言わずに)、さらに事実をでっち上げてまで議会を欺き、ひいてはアメリカ国民までをも欺いて参戦する。
この「情報操作」がアメリカ政府の常套手段なのである。
ところが、時として、これらの印象操作や情報操作が通用しないケースが存在する。そもそも内戦や紛争が発生していない地域での介入である。
争いがない地域においての強引な武力介入は、超天才的なシナリオライターでも存在しない限り、極めて困難だ。したがって、そういった場合には、アメリカのご都合主義には限界があるということになる。
その点、独裁国家であればそういった制約がない。
しかしその状況を甘んじて受け入れると、ソ連などの独裁国家のご都合主義に自分たちの「畑」が荒らされてしまう恐れがある。その上、アメリカにとって不都合な政権が成立、存続してしまうことは間違いない。
しかし、そんな状況下においても、アメリカには最終手段があるのである。
対民主政治の武器③「政権転覆」
1970年、チリで歴史に残る大統領選挙が行われた。
社会主義者でありチリ社会主義政党の連合体「人民連合」の指導者であるサルバドール・アジェンデが、投票の結果首位となった。
当時チリ国内でも、アメリカや国内の富裕層などの勢力によって、「社会主義=危険思想」というプロパガンダが広く喧伝されていた。それにも関わらず、社会主義者が大統領選挙で首位となってしまったのである。

サルバドール・アジェンデ大統領
画像: ©Biblioteca del Congreso Nacional de Chile, ウィキメディア・コモンズ経由
この結果に、アメリカやチリ国内の反社会主義勢力は危機感を覚える。
特にアメリカは、社会主義政権が成立することにより、アメリカ企業の保有していたチリ国内の鉱山資源の権益が脅かされることを懸念していた。また、公平な選挙による合法的な社会主義政権の誕生は史上初であったため、アメリカが世界中にプロパガンダとして用いていた
「社会主義=独裁」
という固定観念を揺るがしかねず、ひいては社会主義が民主的に世界へ広まる懸念すらあった。
当然、自由だけが友達のジャイアンはこの政権の誕生を阻止すべく立ち上がることになる。
しかし、チリは、当時の南米国家としては比較的政情が安定していたため、アメリカが武力介入をする余地はない。おまけに社会主義政権と言っても自由な投票による民主政権だ。介入の大義名分どころか付け入る隙すらない。しかしこのままでは鉱山権益もろとも社会主義に飲み込まれてしまう・・・。
そこで登場するのが、みなさんご存知「CIA」だ。
CIAと言えばスパイ活動など行う諜報機関として有名だが、それは一側面にしか過ぎない。CIAの最も大きな任務は外国における「政権転覆」と「親米政権の樹立」である。
得票数で首位となったアジェンデは、まだこの時点で得票が過半数に達していなかったため、当選するには決選投票に勝つ必要があった。まずアメリカは、この決選投票の前に動き出した。
CIAを通じ、チリのシュナイダー陸軍総司令官に接触、クーデターを依頼したのである。世の中にはとんでもないお願い事があるようだ。
しかしこのシュナイダー将軍、
「軍は政治的に中立であるべきだ」
としてこのお願いを断固拒否する。
大変立派な軍人さんだ。しかしこの立派な軍人さん、決選投票の直前に、同じくCIAから依頼を受けクーデターを画策していた勢力に殺害されてしまう。
「うわぁ・・・」と思った方もいるかもしれない。
当然事情を知るチリ人も同じ思いを持っただろう。
結果、決選投票で対立していた社会主義政党以外の政党が「民主主義を守る」という理由で団結、アジェンデ支持に回るのである。そしてここに世界初の民主的な社会主義政権が誕生する。
「うわぁ・・・」とため息を漏らすCIAとアメリカ。
やったことが完全に裏目に出たのだ。
しかし、彼らの辞書に「自由」という言葉はあっても「不可能」という言葉はない。さらにCIAの活動を活発化、チリ軍内部の反アジェンデ派に対し、クーデーターのための資金援助と軍事援助を積極的に行い、この社会主義政権を確実に打倒しにかかる。
さらに、伝家の宝刀「経済制裁」も併用し、チリ経済を苦境に立たせ、アジェンデ大統領を退陣に追い込もうとするのである。
しかし、高い志と固い決意を持ったチリ国民の目は欺けず、アジェンデ大統領の支持率はなかなか下がらなかったのだ。
焦るアメリカとCIA。
そして当のアジェンデ政権は、次々と公約に掲げた政策を実行に移してゆく。
農地改革、協同組合設立、スラムへの学校建設・・・
そしてついに、禁断の果実へと手を伸ばす。
改革の最大の焦点は、世界一の埋蔵量を誇る銅鉱山という資源産業を国有化することであった。ところがチリの銅鉱山はケネコッタ社とアナコンダ社のアメリカ資本だけで全生産の8割を占めていた。アジェンデ政権はアメリカ企業に正当な補償を約束したが、実際にはアメリカ企業が世界平均に比べて異常に儲けていたため、その分を差し引いたところ、結果的に無償で接収することになった。
引用:「世界史の窓」,Y-History 教材工房,2017年7月28日アクセス
ジャイアン大発狂。
最大の懸念だった鉱山権益を、最悪の形で失うことになってしまうのである。
後がないアメリカとCIAは、ここで奥の手を使う。決選投票で一度はアジェンデ支持に回った対立政党を引き込もうと画策したのだ。
そしてこれが大当たりする。
アジェンデ支持から反アジェンデに回るのだ。国民の意志は強くても、政治家はチョロいらしい。結果、元々盤石な体制ではなかったアジェンデ政権は、一気に窮地に立たされる。
さらに、チリ軍内部の反アジェンデ派がこれに呼応するように動き出す。
シュナイダー将軍の後任プラッツ陸軍総司令官も
「軍は中立であるべき」
との考えを持っていたが、軍内部の反アジェンデ派をコントロールしきれなくなっていた。
プラッツ将軍が辞任に追い込まれ、その後任となったピノチェト陸軍総司令官は、CIAの支援を受けた反アジェンデ派であった。そして、1973年9月11日、ピノチェトによる軍事クーデター(チリ・クーデター)が発生、アジェンデは志半ばで命を落とす。
その後CIAの支援などによりピノチェト独裁政権が誕生、チリは長きにわたる恐怖政治の時代へ突入することになる。
ところがどっこい、結局その後もアメリカは鉱山権益を奪い返すことができなかった。
というのも、このピノチェト政権が、鉱山の国有化の代償として、鉱山以外の国内の権益を徹底的に解放(自由化)し、「反社会主義」の旗印を掲げ続けることによって、アメリカ政府の信用を得ることに成功するのだ。一方で、反社会主義政権という立場をアメリカにアピールするが如く、ピノチェトは血生臭い左翼狩りを断行する。
そして様々な権益を失ったチリ国内は、経済的・社会的に崩壊し、完全なカオス状態に陥ってしまう。
こうして、当初の目的からは外れたものの、CIAを用いた政権転覆と親米政権の樹立は辛くも成功、ジャイアンのご都合主義は完遂する。当然このプロセスで、アメリカの世論も議会も、アメリカ政府に対して干渉はできない。
アメリカ政府そのものは一切手を汚して出していないからだ。
このように、アメリカは国内においては民主主義国ではあるものの、対外的にはそれら民主的なプロセスを見事にすっ飛ばす手段を持っているのである。
結果、外から見れば、ほとんど独裁国家と変わらないプレゼンスを維持しているのだ。
北朝鮮の視点
こうしてみると、アメリカは間違いなく民主主義国家なのだが、対外的には旧ソ連と大して変わらない。したがって、こうした恐怖のご都合主義に真っ向から対立する羽目になる国々にとって、アメリカはほとんど
「通り魔」
に近いといえるだろう。
なぜなら、いつ、どんな口実で、何を理由に、どんな手段で潰されるのか、その時にならなければわからないからだ。おまけに真実が明らかになった時にはいつもあとの祭り状態だ。
そうなると、残された手段は一つしかない。
自分たちも強力な軍備を持ち、強固な政権基盤を築き上げることだ。
どんなに良い子にしていようが、どんなに正しいと思えることをしようが、ジャイアンたちにとって不都合が生じればあの手この手で潰されてしまう。だったら喧嘩を売ることになったとしても、力を持とうと考えるのが普通だ。
そして北朝鮮もまた、そういった考えを持っていると捉えるのが自然だろう。
ただ、現代の日本人的価値観からすれば、腑に落ちない部分もあるのではないか。それは、
「韓国に土下座して併合してもらえばいいじゃないか」
という考え方だ。確かに、そんなにアメリカが怖いなら、全てを諦め、全てを明け渡すという手段も、自分たちが生き延びる方法論としてはありうる。
しかし、北朝鮮においては、それができない事情があるのだ。
それにはもう一つのジャイアンの存在があるのだが、それについては次回、触れることにする。
というわけで次回(その3)は、北朝鮮がアメリカと敵対する羽目に陥った経緯、すなわち朝鮮戦争の経緯を踏まえながら、もう一つのジャイアンの存在と北朝鮮の関係について考えてゆくことにする。