『ADHD』という人生①ー「思考のスイッチ」と「うわの空」

 記事一覧へ

 唐突だが、私はおそらくADHDだ。

「おそらく」というのは、きちんとした医師の診断をまだ受けてないので、断言するつもりはないという意味だ。

しかし、ネットの情報やADHDで悩んでいる人の話とかを聞くと、明らかに私もADHDだとわかる。

何せ生まれた時から行動が異常だからだ。他の人と全く違う。

そのせいで、社会人となった今も苦しんでいる。

その上、今はうつ病も患ってしまっている。

この記事では、ADHDの細かい内容やら医学的に見た症状やらの話はしない。

ADHDを患う本人からしてみれば「医学的」な話や「専門的」な解説は微妙に的を射ていないように感じられるからだ。

だからここで私が述べたいのは、ADHDに悩む私自身の、

「本当の処方箋」

は何かという見解だ。

スポンサーリンク

無意識に切り替わる『スイッチ』

 よく、ADHDについて、

「落ち着きがない」

「衝動的に行動する」

「注意力が散漫」

みたいな解説がある。

それはそれで正しいと思うが、それも根本にある症状の「結果」にしか過ぎない。

例えば、ある人が「落ち着いている」と表現されるような状態にある時、その人の脳の中はどうなっているだろう。

何も考えず、明鏡止水の状態にあるといえるだろうか。たぶんそれは違うだろう。

もしそんなことができていたら、それは瞑想に近い。たぶんほとんどの人間は瞑想なんかできないし、できたとしても四六時中瞑想している人はいない。

「落ち着いている」というのは、その時、その状況に応じた、ふさわしい行動に専念している状態を指す。つまり、脳の中は、その時、その状況にふさわしい、適切な「思考」をめぐらせているはずだ。

例えば、目の前にいくつかの計算問題が書かれた紙を置かれ、

「~分以内にこれを解きなさい」

という指示が出たとする。そうすると、普通であれば、目の前の1つ1つの計算問題を認識し、目に入った数字と記号の羅列を頭の中の算術にかけ始める。そしてそうした脳の思考に専念する。

その結果はじき出された情報をペンで紙に書き写し、解答となる。

重要なのは、そのように適切な思考を働かせるためには、自分自身で思考をコントロールする必要があるということだ。

目に入った情報を「認識しようと」し、「算術にかけよう」という、脳のスイッチを入れなければ、脳は勝手に計算してくれない。

たぶん、普通の人はそういった脳のスイッチを無意識のうちにON/OFFしているため気づかないだろう。しかし、一つの物事に専念するというのは、そういった脳のスイッチがあるからこそ初めて機能しているはずなのだ。

そうしてありとあらゆる物事に専念し、行動できるからこそ、外から見ると「落ち着いているように見える」のだ。

だから、本を読むときも、映画を見るときも、スポーツをしているときも、人と会話をするときも、人間はその行動に専念するために、無意識のうちにいろんなスイッチをON/OFFしながら思考を巡らせている。

『気持ち』と『思考』は別物

 ADHDの人間には、そのスイッチが「ない」。

「ON/OFFできない場合がある」とかではない。私の経験上はっきり言える。

本当に「ない」。

幼いころは私もそれが普通だと思っていたのだが、小学校高学年くらいになると、周りの友達と自分が明らかに違うことに気が付いた。全く同じ計算問題を解いているのに、それをやり遂げるのに自分だけが途方もない時間を費やしている。1つの問題をやろうとしても、他の問題が目に入って今やるべき問題に集中できない。

みんなで静かに読書をする時間があっても、全く読書に専念できない。必死に文字を目で追っているのに、頭の中では全く別の思考が巡っていて、書かれた日本語が、何か意味不明な記号にしか見えない。

必死に先生の話を聞こうと耳を傾けていても、脳が全くその言語を認識しようとしてくれない。その時も脳は全く別の思考を巡らせている。

ちょっと前に「やる気スイッチ」とかいうCMが流行ったが、それとは違う。やる気はむちゃくちゃある。しかし、脳が思うように働かないのだ。

そしてどこをどう探しても、「やる気」と実際の「思考」をつなぐスイッチが見当たらない。

私は今の今までそれを探してきたが、とうとう見つけることができずに今に至っている。

なのでADHDの人は、「気持ち」と「思考」のスイッチが全く別のものだということを痛いほど理解しているはずだ。私はそれが当たり前だと思っていたが、徐々にそれが一般の人には理解し難い感覚だということが分かってきた。

『衝動的』『多動性』『注意散漫』の本当の意味

 もしかすると、一般の人でも「気持ち」と「思考」がリンクしない場合がないわけではないかもしれない。

何かを頑張ろうと思っても集中力が持続しなかったり、仕事をしていてもボーっとしてしまう時があるだろう。そういう状態を、よく「うわの空」と表現する。

そういう時は大抵、というよりほぼ100%、別の何かを考えているだろう。

ADHDの人は、まさに常時そういった状態だ。もう、ずっと「うわの空」なのだ。

しかし、一般の人と異なるのは、「常に」というだけではない。

その「うわの空」の度合いが強烈なのだ。

今やるべきことに集中できず、別のことを考えているだけならまだしも、その別の「思考」が強烈過ぎて、実際の行動を伴ってしまう

『思考』の暴走

 例えば、夕食を自炊するとする。

まな板の上で野菜を切っているときに、料理器具を後で洗って片付けなくてはならないことを頭で思い浮かべる。すると、野菜を切ったそのすぐ後、包丁を洗って片付けてしまう。しかしよくよく考えると、まだ肉を切っていない。結局、一度洗って片付けた包丁でまた肉を切る羽目になる。

そうして肉を切っていると、肉を焼かなければならないことを思い浮かべる。するとフライパンに油をしき、火をかけていた。しかし、全く肉を切る作業は済んでいない。慌てて肉を切り終え、フライパンに投入する。しかし、先に焼くべきは野菜だったことに気が付く。

あるいは、翌日に、恋人と朝早くに出かける予定があるとする。

ある作業をしていたが、ふと時計に目をやると、夜が更けていることに気づいた。明日、朝早く起きなければならないということを頭で思い浮かべると、今やっている作業の片付けもせずに、自分の部屋のベッドへ向かう。しかし、ベッドの前でまだ風呂に入っていないことに気づく。

なので風呂に入らなくてはいけないことを頭で思い浮かべる。すると気づけば風呂の脱衣所に立っていた。しかし、着替えを持ってきていないことに気づく。なので着替えをとりにまた自分の部屋へ戻り、タンスを開ける。

服を見ていると、明日着ていく服は何にしようか、想像が膨らむ。そして気づけば明日着ていく服を用意し、脱衣所に立っていた。しかし、用意すべきは、明日着ていく服ではなく、寝間着である。

こんな風に、「次はこれをやろう」とか、「あとでこれをやらなきゃいけないんだな」という考えが頭の中で思い浮かぶと、次の瞬間にはその思い浮かんだ行動が実現している。

何をすべきか、どうすべきかはわかっている。しかし、頭の中の思考が強すぎて、思うように順序だって物事が進まない。

これが、「衝動的」とか、「注意力散漫」といった症状につながる。

また、頭の中の思考は意味のあるものだけではない。その状況と全く関係のない、無駄な思考もある。それすら行動を伴ってしまうので、はたから見ると落ち着きなく動き回っているように見えてしまう。それが「多動性」の正体だ。

だから、ADHDの人は、日々の生活に無駄が多い。

自分でも「馬鹿なんじゃないか」と思うほどだ。

一つのことをやり遂げるのに、ものすごく時間がかかるし、疲れる。

労働者として働くなら、致命的な欠陥といえるだろう。

こうして日々、もがいている。

次回は、そうした症状から起きた、実際の私の体験談を紹介する。

スポンサーリンク

共有

スポンサーリンク