『ADHD』という人生③ー「心配性」と「整理整頓」

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 今回は私の思春期の歩みを省察する。

小学校低学年ぐらいまでは、発達障害を抱えているという自覚は微塵もなかった。むしろ、成績もよかったし、先生からは他の子よりも褒められることが多かったので、

「もしかすると自分は優秀な人間ではないか」

と、調子に乗っていたように記憶している。

そうした勘違いや障害を覆い隠してきた私の特殊技術が、後々自らの首を絞めるようになる。

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適役(?)

 私の卒業した小学校では、高学年になると「学級会」が組織される。小学4年次、どうしてそうなったか記憶にないのだが、私は学級会長に抜擢される。

おそらく、他に学級会長になりたがる子がいなかったので、担任の先生にそそのかされて、調子に乗って手を挙げてしまったのだと思う。

今思えば恐ろしい冒険だが、当時の私は、自分の頭の中では「優秀」だったので、それほど大きな決断ではなかった。

小学校の学級会長の役割はというと、行事がある度、クラスの催し物などについて何をするかの話し合いを主導したり、その練習や企画、運営においてクラス全体をまとめて引っ張ったりする。

校外学習や修学旅行の際には、クラス全体で行動するときに、ちょっとした先生の代わりみたいな事もやったりする。

あるいはクラスで何か問題が起こり先生がブチギレた時、クラスを代表して怒られたりもする(今思えばすごい理不尽な気もする)。

そうした日常のリーダー的な役割を果たす上で重要なのは、「責任感」とか「連帯感」といった精神論だけではない。

むしろより重要なのは、これからどうすべきか、あるいは後先のことを考えて今何をすべきかを誰よりも先に考える能力である。

その意味ではADHDの人は学級会長に適任かもしれない。なぜなら、ADHDの脳は

「後先のことが気になってしょうがない」

からである。

それが重要なことであればあるほど、気にしてしまい、頭に浮かんで離れない。他の子があっけらかんと済ますようなことでも、気になって夜も眠れなかったりする。

だから、クラス全体を考えた場合、そういった人に学級会長を任せるのは安心できるだろう。特に担任の先生は私に全幅の信頼を寄せていた。

結果、私はその後の5年次、6年次と続けて3年間、学級会長を務めることになる。

個人的には地獄の日々

 しかし裏を返せば、ただでさえ後のことが気になる人間が責任ある立場に立たされてしまうと、その人にとっては過度なストレスになるということでもある。

頭の中はより一層混乱し、今やっている勉強や授業、あるいは友達との会話すらままならなくなってしまう。

なので私の高学年の学校生活は、そうしたストレスとの戦いであった。

何かの行事の準備が始まる度、自宅に帰っても食事がのどを通らなくなり、眠れなくなる。授業中も休み時間も、ずっと緊張状態に置かれる。

クラス内の話し合いでは、どういった催し物を「やりたいか」をみんなに尋ねるのではなく、何が一番「やりやすいか」を第一条件に、少しでも容易に実現できそうな案が出た瞬間に、実質、私の独断で決めていたように思う。

校外学習や修学旅行でクラスを代表して旅行先の大人たちに挨拶をするときは、寝る間も惜しんでその原稿を考えていた。

如何せん、途切れ途切れの集中力ではなかなか仕上がらない。ましてや休み時間のちょっとしたいとまに書き上げるのは、私にとっては大きな困難を伴う。

なので放課後や帰宅後に、ゆっくり時間をかけてカンニングペーパーをつくったりしていた。

行事の催しや旅行の当日ともなれば、そうした憂鬱は極限状態に達する。

はっきり言って何も楽しくない。

何か忘れていることはないか、想定したシミュレーション通りに進むか、誰かがトラブルを起こさないか、大人たちは不機嫌でないか、色々なことが気が気じゃなかった。

ところが、案外何かトラブルがあっても、普段は呑気な友達に助けられたりもした。そういった時の友達は本当に神様のように見えた。

やはり持つべきは友である。

しかし同時に、周りの友達はなぜそんなに落ち着いていられるのか、なぜ自分はいつもこんなにテンパっているのかと、卑屈になったりもした。

このあたりから徐々に自分が普通じゃないのではと考え始めるようになる。

そのような環境で、徐々に新たな身体的異変が生じ始める。今度は「頭痛」だ。

猛烈な吐き気を伴った激しい痛みが、脈を打つように目の奥あたりを襲う。全く動けずに嘔吐しながらもがく時もあった。

そうした頭痛が定期的に起こり、かなり苦しんだ。その上、謎の腹痛、激しい腰の痛みを伴う原因不明の血尿も続いていた。

今になれば満身創痍だったとわかるが、当時の私はそれが異常な状態であることに気づかないほど必死だったのだろう。

頭の中の思考は「地に足」どころか、迫りくる現実の未来と、空想の世界を行ったり来たりして飛び回り、

今、目の前の現実を踏みしめる」

事はほとんどなかった。

そうした小学校生活だったので、はっきり言って楽しい思い出は全くない

抜け出せない・・・

 中学に進学しても、授業中に我慢して座っている時間は相変わらず苦痛で、本当にしんどかった。

そして問題の学級会長の呪縛から逃れたかと思いきや、どうやら小学校側から中学校側へ3年間の学級会長としての実績について「告げ口」があったらしく、1年次の担任の先生からまたも学級会長就任の打診を受ける。

さすがの押しに弱い私もそれは断ったのだが、代わりに副会長に抜擢されることになる。

当時の私の中学校では、学級会長や副会長になると「学年生徒会」という学年としての活動を統括する組織のメンバーに名を連ねることになっていた(今はどうなっているか知らない)。

私は「学年としての活動なんてほぼないだろ」とタカをくくっていたのだが、実は私の通っていた中学校は生徒数が少なめで、学級単位よりも学年単位で活動することの方が多かったため、学年生徒会がかなり重要な役割を果たしていたのだ。

そんなこと全然知らなかった私は、その後学年生徒会を通じ、小学生時代と同様の苦悩を抱え続けることになる。

しかも、中学三年次には、晴れて(?)「学年生徒会長」に就任することになってしまう。

さらにさらに、そうしたリーダーシップ(?)が周囲の目に留まったのか、あるいはただの嫌がらせだったのかはわからないが、めちゃくちゃ苦手だったはずの部活動(スポーツ部)でも、部員からキャプテンに推薦、抜擢されてしまう。

こうして、「後先のことが気になって仕方がない」という私の性分が、まるで宿命のように延々と続く困難を呼び寄せてしまった。

こうした私の経験からすれば、後先が気になるとか、心配性とか、そういうのは必ずしも短所ではないと思われる。だからこうして評価され、様々な経験もさせてもらった。

しかし、必ずしも長所ではないというのも事実である。その点については、このテーマの最後に述べさせていただくので、ここでは割愛する。

できないことが明確に

 そうして苦しみながらも何とかやり過ごしていた小・中学生時代だったが、どうにもならないこともあった。最も困難だったのが、物の管理や整理整頓だ。

まず、とにかく物を失くすことが多かった。教科書、ノート、筆記用具、プリント、帽子やハチマキ、夏休みのしおり、リコーダー、水筒、弁当箱・・・。

ほぼ毎日、何かがなくなっていた。どこにしまったのか全く記憶にない。

そもそもしまわずに、下駄箱の上だとか、体育館のステージ上だとか、自分でも「?」なところへ置いてあることもしばしばあった。

おそらく、物をしまったり置いたりするときに、現実から意識が飛んでいるためそうなるのだろう。つまりここでも、「うわの空」が原因と思われる。

そして忘れ物も多かった。常にボケっとしているので、後になって必要な身支度をしていないことに気がつく

小学校高学年にもなれば、忘れ物で失敗した経験がすでに積みあがっていたので、いつも何か忘れていないか、漠然とした不安があった。なので、できる限り物を持ち帰らないようにして対処した。

しかし、どうしても持ち帰らなければならないものはやはり忘れてしまう。

夏のプールの授業では、いざ着替えようとすると、キャップが無かったり、肝心の海水パンツが無かったりすることが結構あったので、無駄に「見学」の常連となっていた。

逆に、持ち帰らなければならない宿題のプリントなどをランドセルや鞄に入れ忘れて帰ることもしょっちゅうあった。

夏季の連休前に食べ残した弁当を忘れてしまい、休み明けに開けて見ると、その中が未確認生命体の繁栄する小宇宙と化していたこともあった。

物の整理整頓に関しては、私の経験上、もはや不可能だと断言していい。紛失時のパターンと一緒だが、無意識のうちにどこかへ物を置いてしまう。

おまけに衝動的に、かつ、うわの空で物をどこかにしまい込むので、その中は常にぐちゃぐちゃだ。なので紙類は基本的にしわくちゃになっている。

さらに、物を廃棄することにも意識が向かないので、机の中、ロッカーの中、鞄の中はいつもいらない物でいっぱいだった。

それと、なぜそうなるのか未だにわからないのだか、プリントやノートなどに、謎の黄ばんだシミや汚れが付いていることが頻繁にある。いつ、どこで、何が付着したのかさっぱりわからない。

しかし、それらは決してう〇こではない。いつも臭いを確認しているのでそれは確かだ。

すべての道が『迷路』

 休日や休業期間などの長期の自由時間は、基本的にうわの空なので家で過ごすことが多かった。寝そべって何かを思いふけっていたり、妄想しながらウロウロしたり、ボーっと何かを考えながらテレビを眺めたり、基本的にものすごく無駄な時間を過ごしていた。

それでも、友達から誘われて外へ出かけることもあった。そして出かける際の交通手段は、もっぱら自転車だった。

ところが、その際大きな問題が生じる。私は道が全くわからないのだ。

よく「頭の中の地図」という表現を耳にする。しかし、制御不能な思考の中に、そんな「神器」は存在し得ない。そもそも、地図を見ながらでも途切れ途切れの集中力では、未踏の地へたどり着くことが多い。

一人で行けるようになるには、それが短い道程であっても、何度も何度も繰り返し往復して景色を「感覚」に叩き込むしかない。なので、現在の地点からどこかを経由して目的地へ向かう行為は、私にとっては超高難度だ。

あるいは、「方向音痴」という表現もある。しかし、私の場合「音痴」という次元ではない。今いる場所にどうやってたどり着いたのか、いつも私は知らないのだ。

たぶん、たどり着く過程で誰かの後をつけながら、やはりうわの空になっているのだろう。

必ずといっていいほど記憶が飛んでいる。

屋内でも年中迷っている。部屋を出た瞬間、右から来たか、左から来たか、それすら記憶にない。なので、とりあえず他の人の後をついてゆく。

それで目的地までたどり着くかどうかは、神のみぞ知るといった状態だ。

それでも、現代では「カーナビ」や「スマホ」といった神々が存在するので、苦労はあれど、なんとか目的地までたどり着いている。

しかし、その当時の交通手段は「自転車」だ。

当然ナビはついてないし、当時はスマホもなかった。

なので、いつも待ち合わせ場所は、すでに感覚に叩き込んだ近所の友達の家か、私の家かのどちらかにしてもらっていた。

そしてそこから目的地までの道のりは、ただひたすら友達の後を金魚のフンみたいにくっついていく。

たまに、「ごめん、忘れ物したから先行ってて」なんて言われたりするともうパニックだ。

なのでそういう時は「いいよ、待ってるよ」と親切なフリをしたりしてやり過ごし、自分の恥ずかしい部分を必死に隠していた。

「地に足」がつく瞬間

 そんなうわの空にまみれた生活の中でも、私の思考が「地に足」をつけることがあった。学校行事が一段落した直後である。

特に、美術や技術などの創作作業、あるいは国語や社会科の授業で小論文を書く時などは、他の子以上に集中して取り組むことも少なくなかった。

もちろん、それらの授業であっても全く集中できない時もあったし、後々何かやらなければならないことがある時は、そのことが頭に浮かんでしまい、必ずと言っていいほどうわの空だった。

そうした懸念もなく、何かのきっかけで作業に集中できた時は、周囲の音や景色が感じ取れなくなるほど打ち込めた。

しかし、それは「スイッチを入れる」という感覚ではない。

気まぐれに浮遊する思考と、直面する目の前の現実が、ふとシンクロするという表現の方が近い。

極端な言い方をすれば、

「今、目の前の現実」の方が「頭の中の思考」へと歩み寄ってくれた

かのような感覚だ。

ADHDの脳は、順序だった物事を忠実にかつ臨機応変に実行したり、暗黙のルールの中で誰かとコミュニケーションをとりながら進めていく作業は極めて不得意だ。

しかし、それらとは異なり、美術や技術の創作、文章を書くという作業は、頭に浮かぶアイデアを表現する行為だといえる。

もしかすると、純粋に頭の中の思考をアウトプットする作業は向いているのかもしれない。何の懸念もなくそうしたことに打ち込めるのであれば、ADHDの人はそうでない人よりも高い集中力を発揮できるのではないだろうか。

もちろん、集中力が高くなるというだけで、そうした分野での才能の有無は全く別の話だ。しかし、高い集中力を発揮できるというだけでも、数少ないアドバンテージになるだろう。

次回④は、私の青春時代の経験談を述べてゆく。

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